キャッチーなアドリブ

 「田部のアドリブってさ~キャッチーじゃないんだよね」
 ライブが終わったある日のこと、友人の都井さんにこう言われた。
 「キャッチー?」
 「なんかさ、ライブの後に来ていたお客さんが帰りに田部がやったアドリブを思わず口ずさんで帰るとかさ。何かそんな感じがないのかなっていうことよ。」
 「・・・・・・・・」
 ボクのアドリブは、ボクがカッコいいと思う演奏者のアドリブ、ボクの感覚にフィットするアドリブのフレーズを見つけてそれをボクなりに分析して表現する・・・というもの。
 「分析」の段階でもそれを表現する段階でもボクのオリジナルになっているはずだが、都井さんに言わせればそれが「キャッチーじゃない」ってことになる。
 ジャズを始めたころ、モダンジャズの第一人者であるコルトレーンのアドリブを聴いて、いいんだけどどこか土着的というか、何かあか抜けないなという印象を持った。
 楽しくないというか、ボクが抱いていた「モダンジャズ」のイメージからは遠いような気がしたのだ。
 ジャズを「聴く」ということと、「演る」ということは雲泥の差がある。
 アドリブは演奏者が自由にやるからアドリブなわけだが、かといってでたらめに演っていいアドリブができるとは思えない。
 ジャズへの理解なくしてアドリブはできないと、理論書も手に取ったが、読めば読むほどわからない。
 理論はジャズを学ぶうえでとても大切だとボクは思っているが、あの「理論書」というヤツはこれから頑張って学ぼうとする人を挫折させたいために書かれているんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
 理論というからには、「ジャズ」というものがわかるように、つまり分析の結果とそれに至る過程を示してほしいと思うわけだが、ほとんどの「理論書」はたとえば「スケールにはこんなものがあります」というような説明に終始し、紙面を埋めているとしか思えない。
 コードを覚えて、スケールを覚えて、アドリブについての理論もある程度理解し、音もきちんと出るようになっても、それだけでいいアドリブとならないところにジャズの面白さと深さがある。
 アドリブのやり方はそれこそ十人十色、いろんな表現があって当然なわけで、アドリブを聞いているとその人の実力はおろか、こわいことに演奏者自身の生き方までが出てくると思っている。
 ボクが今まで聴いて、というより観ていて度肝を抜かれたのは、水槽におたまじゃくし(かえるの子)を入れて泳がせ、それに基づいて演奏するとか、ピアノの前に座って黙って5分間くらいジーっとそのまま動かないだとか・・・絵画の世界でも舞台の世界でも「前衛」というものがもてはやされていた時代だからというのもあるかもしれないが、もうここまでくると何でもありというか、アドリブの域を超えている。
 「都井さんが思うキャッチーなアドリブってどんなものなの?」
 「ほら、ガーシュインのアドリブとかさ。キャッチーと思わん?」
 「・・・・」
 ガーシュイン好きの都井さんに、今度ガーシュインを思いっきり分析したものを聴かせてみようか。

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